2013年1月2日水曜日

「原子力は危険」「私なら別のエネルギー選ぶ」ベルギー原子力庁最高責任者、引退を前に吐露/ルモンド紙(12月28日)



―――*原発廃止*―――

*即・原発を廃止しても、使用済み燃料や原子炉廃材の放射能と100万年!

*低線量被曝に関しては、ECRR(欧州放射線リスク委員会)の「2010年勧告」を基調にする。

*国家権力の横暴を許さず、主権者である国民の命と生活を守る政権の樹立を!

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「原子力は危険」「私なら別のエネルギー選ぶ」ベルギー原子力庁最高責任者、引退を前に吐露/ルモンド紙(12月28日)

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「メルマガ金原」No.1219(一部省略)

元旦に読む『9条どうでしょう』(ちくま文庫)



 暮れの30日に、近くの書店で1冊の文庫本を購入し、元旦の今日、一気に読了しました。

 2013年第1号(通算1219号)の「メルマガ金原」は、その本をご紹介しようと思います。



『9条どうでしょう』

 内田 樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩 共著

 2012年10月10日刊行

 ちくま文庫 680円+税



 憲法9条に関わる書籍は結構読んでいる方だと思いますが、この本の存在は知りませんでした。

 オリジナル本は、2006年3月に毎日新聞社から刊行されています。



 事実上の編者である内田 樹(うちだ・たつる)氏の「文庫版のためのまえがき」にはこうあります。



(引用開始)

 「改憲ブーム」に伏流していた「愛国主義」や「好戦的傾向」は続く麻生内閣の倒壊と政権交代によって勢いを失った。でも、消え失せたわけではない。現に、この「まえがき」を書いている2012年の晩夏には、日韓・日中の領土問題をめぐって、「国防強化」とか「弱腰外交」とかいううわずった言葉がまたメディアでは増殖してきている。6年前の「ブーム」の主役たちがいささかのインターバルの後に、再び登場の機会をうかがっているようでもある。もし、そういう点で本書が「今読んでもアクチュアル」な本であるのだとすれば、それは日本人の政治的成熟がこの6年間(東日本大震災と福島原発事故を経由しながらも)ほとんど進まなかったということを意味しているわけで、それを言祝ぐ気にはなれないのである。

(引用終わり)



 内田氏が、毎日新聞社版の「まえがきにかえて」を書いた日付は「2006年2月10日」とクレジットされていますが、これは、小泉政権の末期、第一次安倍晋三内閣誕生の7か月余り前のことでした。

 そして、今回のちくま文庫版の「まえがき」が書かれたのが「2012年8月」であり、自民党総裁選挙の1か月前、そして第二次安倍政権誕生の4か月前のことでした。



 まさに、必要とされるタイミングで世に出る「宿命」を帯びた本なのかもしれないと、読み終わった今、そう考えています。



 以下に、4人の著者のそれぞれの論考の中で、私が最も感銘深く読んだ部分を抜き出しておきましたが、前後の文脈の中に置いてこそ正しく読みとられるべきものですから、是非、原典にあたっていただきたいと思います。



 私は、うかつにもこの本の存在を6年以上知らなかったのですが、それは、この本が「普通の護憲派」が読む本とは明らかに異質な内容を含んでいたからでもありそうです。

 4人の論者の立場が全て一致しているということでは全然ないのですが、 「とこかで聞いたような話」の繰り返しをしたくはない  既成の護憲派とも改憲派とも違う「第三の立場」を探り当て、そこからの眺望を語る

  (「まえがきにかえて」より)

という共通したスタンスによって書かれており、一読、非常に新鮮かつ刺激的です。

 もちろん、自衛隊の位置付けなどに賛同しがたい人もいるでしょうが、内田氏が「おそらく、おおかたの日本国民は口に出さないけれど、私と同じように考えていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである」と主張する時、そこに相当の説得力があることは認めざるを得ません。

 また、改憲派の主張の何が危ういのか、という点についての各論者の指摘は、それぞれ実に正鵠を射ており、非常に参考になります。



 まさに、必要な時期に、必要な本が、入手しやすい文庫本として再刊されたことを喜びたいと思います。

 皆さんも是非ご一読の上、周りの人にも薦めていただければと希望します。



内田 樹(うちだ・たつる)氏

1950年東京生まれ 神戸女学院大学名誉教授 思想家 武道家

「憲法がこのままで何か問題でも?」(17頁~)から

(引用開始)

 自衛隊は憲法制定とほぼ同時に、憲法と同じくGHQの強い指導のもとに発足した。つまり、この二つの制度は本質的に「双子」なのである。それは、この二つの制度がともにアメリカ合衆国の世界戦略から、より直接的にはGHQの占領政策から生まれたことを考えれば当たり前すぎることである。

 憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、相補的に支え合っているのである。

 歴代の日本の統治者たちは、「憲法九条と自衛隊」この「双子的制度」を受け容れてきた。その間に自衛隊は増強され、世界有数の軍隊になり、目的限定的にアメリカを支援してきたが、それでも「戦争ができない軍隊」であるという本質的な規定は揺るがなかった。私はこれを「武の正統性」が危うく維持されてきた貴重な60年間だったと評価している。先進国の中で、これほど長期にわたって戦争にコミットしていない国は例外的である。「戦争をしないできた」という事実が戦後日本のみごとな経済成長、効果的な法治、民生の安定を基礎づけてきたという事実を否定できる人間はいないだろう。

 憲法九条のリアリティは自衛隊に支えられており、自衛隊の正統性は憲法九条の「封印」によって担保されている。憲法九条と自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている。

 おそらく、おおかたの日本国民は口に出さないけれど、私と同じように考えていると私は思う。だからこそ、これまで人々は憲法九条の改訂を拒み、自衛隊の存在を受け容れてきたのである。

(中略)

 憲法九条を廃止するという運動を推進している人々は、「改憲した後」のことをどれくらい真剣に考慮しているのだろうか。 おそらく何も考えていないだろう。

 仮に改憲案が衆参両院の三分の二の発議で、国民投票にかけられ、過半数の支持を得た場合、私たちは60年間の夢から半分だけ醒めることになる。だが、改憲派の諸君には目覚めたあとの耐え難い現実を直視する覚悟があるのだろうか。

 憲法九条が廃止されるということは、これまで私たちが「普通の国」の「普通の軍隊」を持つことができなかったのはすべて憲法九条の制約のせいだという「言い逃れ」がもう使えなくなるということである。だが、現実には、憲法九条を廃止しても、軍事をめぐる事情は今と少しも変わらない。憲法九条を廃止したその後も、依然として自衛隊の軍事行動は一から十まで米軍の許諾を得てしか行われない。アメリカは日本の主体的軍事行動を決して許さない。

 アメリカは九条の廃止を黙認するだろうが、その引き替えに、日本の国防予算の増額と、その過半をアメリカ製の高額な兵器の定期的かつ大量の購入に充当することを日本に要求するだろう(あの「年次改革要望書」によって)。これまでのような「後方支援」の代わりに、アメリカが始めた戦争の前線に駆り出して「戦死する権利」も自衛隊員たちのために確保してくれるかもしれない。もっとも無意味な戦争のもっとも無意味な作戦のもっとも兵員消耗の多そうな戦場になら、自衛隊の派兵を提案してくれるだろう。

 それが改憲のあとに日本人が直面するはずの現実である。そのとき、「憲法九条さえなくなれば、日本は誇り高い自主防衛の国になれる」という60年間嘘だとわかりながら自分にむかって告げ続けてきた嘘の決着をつけることを日本人は求められることになる。「普通の国」になったはずのまさにそのときに、アメリカの「従属国」であるという否定しがたい事実に直面するだけの心理的成熟を日本人は果たしていると言えるだろうか。 私は懐疑的である。

(引用終わり)



町山智浩(まちやま・ともひろ)

1962年東京生まれ 映画評論家 父は韓国人

「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう」(75頁~)から

(引用開始)

今すぐあわてて改憲しなきゃならないほど切羽詰まった事態ではない。それなのに必死に改憲を求める理由は、国防上の必要性なんかじゃなくて、「民族」なのだ。

 たとえば、中曾根試案にはこんな一文がある。「我ら日本国民は(中略)独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」 日本国民は・・・民族を形成し・・・?

 彼は、日本国民イコール日本民族(そんなものがあるとして)だと思ってるわけだ。

もちろん、日本国民には、アイヌ系や琉球系、それに僕のような帰化人もいる。中曾根はかつて「日本は単一民族国家」と発言してさんざん叩かれたのにちっとも学んでない。彼は日本民族のためだけの憲法を作ろうとしているわけで、「すべての人間」と書いたアメリカ独立宣言とはえらい違いだ。

 しかし、「日本国民イコール日本民族」と思っているのは中曾根一人ではないらしく、たとえば、読売新聞が作成した憲法改正案の前文にも「日本国民は、民族の長い歴史と伝統を受け継ぎ・・・」という文章がある。

「憲法という国の要に民族を謳って何がいけないのか?」と疑問に思う人は、「国民国家」というものが全然わかっていない。(引用終わり) 



小田嶋隆(おだじま・たかし)氏

1956年東京生まれ コラムニスト

「三十六計、九条に如かず」(133頁~)から

(引用開始)

 つまり、九条は日本の国防政策の基本方針として十分に現実的かつ有効だ。九条のもとで、十分に国は守れる。

 理由は、戦後からこっち、われら日本国民が、60有余年の間、ひとたびの戦争も経験せず、具体的な侵略の脅威にさらされることもなく、平和のうちに暮らしてきたという実績を挙げれば足りる。「これまで大丈夫だったから、これからも大丈夫だなんていうのは、無責任だ」 という人々があるかもしれない。 が、コトは国防だ。

 新機軸や新体制を試すよりは、現状がうまく機能しているのなら、現状維持が一番だ。安全第一。徐行運転。平和ボケと言わば言え、だ。

 一体に、軍事オタクの人々は、戦地にこそ平和があるといった背理に陥りがちだ。 具体的に言うと、「国の安全をまったきものにするためには、来たるべき戦争に備えて、軍備の更新を怠らず、常に周辺国の動向に警戒の目を配り、さらに、隣国の侵略意図を事前にくじくべく、時に威嚇と恫喝をカマしておくだけの用心深さが必要だ」式の理屈は、細心なようでいて、かえって危険だったりするということだ。

 右の「常住戦場」的な心構えは、内乱勃発中の国や、常に国境紛争をかかえている第三世界の小国や、過去5年以内に、実績として戦争が勃発していた地域では有効かもしれないが、日本にはあてはまらない、っていうか、現今の極東アジア情勢において、周辺国に察知できる形で「戦争準備」を進行したり、「軍事的な示威行動」をやらかすのは、いたずらに緊張を高めるだけ、愚の骨頂だ。

(中略)

 ねじれは別のところにもある。憲法第九条の熱烈な支持者のひとりに、おそらく今上天皇がいるということだ。 もちろん、天皇が公的な場所で、九条への思いを語った事実があるわけではない。 が、2005年6月のサイパン訪問の折に、急遽韓国人戦没者の慰霊塔(韓国平和記念塔)を参拝していることをはじめ、現代日本の公的な立場にある人々のうちで、最も頻繁に、かつ真摯に「反戦」と「平和」について言及しているのがほかならぬ天皇皇后両陛下である事実は、銘記しておくべき事実だ。

 2004年の園遊会では、こんなこともあった。

 ―園遊会には、日産のカルロス・ゴーン社長や将棋永世棋聖で東京都教育委員の米長邦雄さんも招かれ、米長さんが陛下に「日本中の学校で国旗を掲げ、国家を斉唱させることが仕事です」と話し、陛下が「やはり、強制でないことが望ましいですね」と応じられる場面もあった―(「読売新聞」2004年10月29日朝刊)。

 何気ない記事だが、末尾の余韻はなんだか感慨深い。つまり、この国の右傾化に歯止めをかけているのは、いまや天皇家の人々であるということだ。

(引用終わり)



平川克美(ひらかわ・かつみ)氏

1950年東京生まれ リナックスカフェ社長

「普通の国の寂しい夢―理想と現実が交錯した20年の意味」(181頁~)

から

(引用開始)

 わたしは、現行の憲法は何が何でも総体として変えてはならないと主張する護憲派ではない。いや、たとえ一字一句同じ憲法であったとしても、日本人はもう一度、憲法というものを自ら選び直す必要があると思っている。また、専守防衛の自衛隊の構想と、今のような自衛隊を育ててきたことを評価してもいる。その上で、自衛隊の存在意義を憲法に位置付けられればいいと思っているのである。

 しかし、この間の改憲の議論を見ていて、「彼ら」には憲法を変えていただきたくないと思うのである。「彼ら」とは、世界の現実に合わせて、あるいはアメリカの極東軍事戦略に沿って、憲法第九条を変更して国軍を海外に展開したいと望んでいるもののすべてである。「それで、国が守れるのか」と、戦後60年間、現行憲法の理念に希望を見出そうとしていた人々の声に恫喝を加えるもののすべてである。集団的な自衛権は、近代国家としての普遍的な権利であると主張する現実派のすべてである。また、軍事力を外交交渉のカードとして使いたい戦略政治家のすべてでもある。そして、このような「常識」に賛意を示す善良なる日本人大衆である。

 「彼ら」に共通しているのは、「現実」というものは、自分たちが作り出すものに他ならないという認識の欠如である。「現実」に責任をとるということは、「現実」に忠実であることではなく、「現実」を書き換えるために何をすべきであるのかと考え続けることである。

(引用終わり)



 なお、内田樹氏が、2007年6月20日、ご自身のブログ(内田樹の研究室)に掲載した文章「愛国について語るのはもうやめませんか」も、今まさに必要とされている認識だと思いご紹介しておきます。

 http://blog.tatsuru.com/2007/06/20_1056.php



(引用開始)

 教育関連三法が今日参院を通過する予定だそうである。 安倍首相は昨日の参院文教科学委員会の総括質疑でこう答えた。 「地域を愛する心、国を愛する心を子どもたちに教えていかなければ、日本はいつか滅びてしまうのではないか。今こそ教育の再生が必須だ。」 私は子どもが郷土や国家にたいして愛着を持つことは国民国家にとって死活的に重要であるということについて首相に異存はない。

 しかし、「愛国心」というのはできるだけ公的な場面で口にすべきことではない言葉のように思う。

 法律文言に記すというようなことはもっともしてはならぬことである。それは左派の諸氏がいうように、愛国教育が軍国主義の再来を呼び寄せるからではない。 愛国心教育は構造的に人々の愛国心を毀損するからである。 私は愛国者であり、たぶん安倍首相と同じくらいに(あるいはそれ以上に)この国の未来とこの国の人々について憂慮している。

 日本人はもっと日本の国土を愛し、日本のシステムを愛し、日本人同士もっと愛し合わねばならない。

 私はそう思っている。 しかし、もしこの願いをすこしでも現実的なものにしようと思ったら、「愛国心」という言葉の使用はできるだけ回避した方がよろしいであろう。 私はそう思う。 なぜなら、「愛国心」という言葉はそれを口にした人間に必ずや祖国のシステムとある種の同国人に対する憎悪の感情を備給せずにはおかないからである。 私自身の愛国心理解はたいへんシンプルである。 それはことあるごとに「日本の伝統とか風土って、最高だよね」といい、「日本の

システムって悪くないと思うぜ」と他人にも自分にも説ききかせ、異郷で同国人に会うと、その人の人間的な出来不出来や思想信教イデオロギーにかかわらず、とりあえず愛してしまうというかたちをとる。

 「Where did you come from?」

 「Japan」

 「え?あんた、日本人なの。ほんと?わお。今日は飲み明かそうぜ」というのが私的な愛国心のもっともシンプルな発現形態である。 よく考えると理不尽である。

 どうして、地理上、法制上の擬制であるところの「区切り」の内側にたまたま居合わせた人間同士はそうでない人間よりも優先的に愛し合わねばならないのか。 私にもよくわからない。 けれども、これを「愛国心の発露」であるというふうには思っていない。 思わないようにしている。 じゃあ、どういう感情のありようなのだと訊かれたら、「なんか、よくわかんないけど、あるじゃん、そういうのって・・・(もごもご)」と言葉尻を濁らすことにしている。 というのは、もし「同国人を優先的に身びいきする態度」のことを「愛国心」というふうに言ってしまうと、そうではない愛国心のありようとフリクションが起きるからである。 というのは、ほとんどの「愛国者」の方々の発言の大部分は「同国人に対するいわれなき身びいき」ではなく、「同国人でありながら、彼または彼女と思想信教イデオロギーを共有しない人間に対する罵倒」によって構成されているからである。 さきの安倍首相のご発言にしても、文教科学委員会の野党席からは「何いってんだバカヤロー」というような口汚いヤジが飛んだであろうし、それをハッタとにらみ返した首相も、機会が許せば彼らを火刑台に送る許可状にサインしたいものだと思っていたことであろう。 いや、隠さなくてもよろしい。 そういうものなのだ。

 人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。 私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。

 歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。

 それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。 ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、

強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。 「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。 それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。 そこから彼らが導かれる結論はたいへんシンプルなものである。 それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。

 その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。 歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。 「ドイツは世界に冠絶する国家」であるという自己幻想と「あまりぱっとしない現状」のあいだをどう架橋すべきか困ったナチスは「ドイツが『真にドイツ的』たりえないのは非ドイツ的ユダヤ人が国民の中に紛れ込んでいるせいである」という解を得た。

 そして600万のユダヤ人を殺した。 ナチスの仮説が正しければ、ドイツ支配地域のユダヤ人がほぼ全滅した時点で、「真にドイツ的なドイツ」が顕現して、ドイツはその絶頂期を迎えるはずだったのだが、どういうわけかどんどん戦況は悪化した。 この反証事例の説明に窮したナチスは「スターリンもルーズベルトもチャーチルも、すべてユダヤ人の手先なのである」という説明を採用して、破綻を糊塗した。 さらに戦況が悪化して、ベルリン陥落直前になったときに、困り果てた宣伝相ゲーリングはこのアポリアをすべて説明できる最終的解決を思いついた。 それは「ヒトラー自身がドイツを滅ぼすためにひそかに送り込まれたユダヤ人の手先だった」という解釈である。 これならすべてが説明できる。

 これを思いついてゲーリングはかなりほっとして死んだことであろう。 愚かしいと笑う人がいるかもしれないが、愛国心というのは本質的にこういうグロテスクな自己破壊といつだって背中合わせなのである。 あなたの身近にいる「自称愛国者」の相貌を思い出して欲しい。 彼らのもっともきわだった感情表現はおそらく「怒り」と「憎悪」であり、それはしば

しば彼ともっとも親しい人々、彼がまさにその人々との連帯に基づいて日本国全体の統合を図らなければならない当の人々に対して向けられている。 私はそのような性向をもつ人々がいずれ国民的統合を果たし、国民全体にひろびろとゆきわたるような暖かい共生感をもたらすであろうという予見には与しない。 憎悪から出発する愛などというものは存在しない。 排除を経由しなければ達成できない統合などというものは存在しない。

 自分に同意しない同国人を無限に排除することを許す社会理論に「愛国」という形容詞はなじまない。 それはむしろ「分国」とか「解国」とか「廃国」というべき趨向性に駆動されている。 そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかもしれないから、もう一度お答えしておく。 そういう話を人前でするのは止めましょう。 現に、愛国心をテーマに書き始めたら、私もまた「愛国心」のありようを私とは異にする同国人たちに対する罵倒の言葉を増殖させ始めている。 愛国心についてぺらぺら語ることは結果的に同国人を愛する動機を損なう。 真の愛国者は決して「愛国心」などということばを口にしない。 ことばじゃなくて、態度で示す(同国人に対するいわれなき身びいきとかで)、ということでいかがでしょうか。

(引用終わり)



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