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☆小出裕章(京大助教)非公式まとめ
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7月4日 田中正造は私が最も敬愛する人 小出裕章(毎日jp)
2011年7月5日
7月4日の毎日jpに小出裕章氏のインタビューの記事が掲載されていました。コメント欄にてHiromiさまより教えていただきました。
以下転載
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<特集ワイド>研究の前線で反原発 住民支える「異端」--京大原子炉実験所・小出助教
2011年7月4日(月)18:00
(※細長い自室に座る小出裕章助教。ついたてには田中正造の大きな写真が=大阪府熊取町の京大原子炉実験所で2011年6月27日、西村剛撮影)
◇リスク負うのは後世…犠牲少なくする責任ある
学者の良心とは何か――。福島第1原発事故は、すべての原子力研究者に問いを突きつけた。その一人でありながら、一貫して反原発の立場を取ってきた京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)の小出裕章助教(61)は今、何を思うのか。【宍戸護】
◇田中正造「もっとも敬愛する人」
暑い昼下がり、訪ねた研究室は薄暗かった。蛍光灯もエアコンもスイッチを入れていない。2人一部屋の真ん中をついたてで仕切られた細長いスペースで、小出さんは机に向かっていた。「余計なエネルギーは使わない。皆さんぜいたくになり過ぎて、不要なものを使い過ぎています」
原子力の文献が山積みされて、記者が座るともう身動きがとれない。
小出さんの専門は放射線計測、原子力安全。愛媛県・伊方原発の設置許可取り消し訴訟で原告側証人となり、99年のJCO東海事業所臨界事故では土壌の放射線を測定し、別の争いでは地域のがん死者数の推計作業も行う――放射性物質の被害を受ける住民を支える活動をしてきた。
福島第1原発の事故後は新聞、テレビ、ラジオ、講演、あらゆる場で事態の深刻さや政府・東京電力の対応のまずさを指摘し続けている。6月に出版した「原発のウソ」(扶桑社新書)は20万部のベストセラーになった。いまや一分一秒を惜しむ忙しさだ。
■
小出さんは東京都台東区生まれ。私立開成高校卒業後、1968年、東北大学工学部原子核工学科に入学。授業を一回も欠席しない学生だったという。「あのころ、原子力は未来のエネルギーと信じていました。原爆のものすごいエネルギーを平和利用したいと思い込んでいました」
東大安田講堂事件をテレビで見た69年、宮城県女川町・石巻市にまたがる女川原子力発電所設置を巡り漁師たちが「電気は仙台で使うのに、なぜ自分たちの町に原発を造るのか」と抗議していることを知った。小出さんは原発のあり方について考え抜き、一つの結論にたどりつく。「女川原発が事故を起こした場合、地元住民はそこに住み続ければ健康に害があり、健康に害がないようにすれば、その地域に住めなくなる」
その懸念は42年後、福島県で現実となる。
原子核工学科は、原子力発電を支えるための科学者や技術者を養成する場。「この学問は受け入れられない」と去っていった仲間もいたが、小出さんは「原子力の学問の中にいながら、原子力が抱える問題を指摘し続けるのが自分の歩む道」と決断した。
京大原子炉実験所が助手を募集していることを「大学院の掲示板で偶然知り」、74年春に採用された。そこには既に、反原発を唱える助手が4人もいた。原発関連の訴訟を支援し、のちに加わった今中哲二助教とともに「反原発の6人組」と呼ばれた。中国の文化大革命を主導した4人組になぞらえての揶揄(やゆ)だ。「反国家的な存在」ともささやかれた。
実験所は「原子炉による実験及びこれに関連する研究」を目的とし、全国の大学の共同利用施設として63年に設置された。反原発を掲げる小出さんらがなぜ残れたのか。
「ここの原子炉は、もともと中性子を出すための道具として造られた。物理学、化学、医学のがん治療にも中性子を使って研究したい分野があり、推進も反対も関係ないのです。とはいえ、教員の自由な意思を尊重し、学問を発展させる京都大学の校風もあったでしょうね」
長年、助教(助手)であることについては「(出身大学からしても)外様ですから」とやんわりかわしたが、研究者の「原子力村」への舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。「猛烈な選別があります。例えば東大ならば国家に協力しない人はダメ。その協力の度合いに応じて出世が待っているのです」
5月23日の参院行政監視委員会で、参考人として国の原子力政策を批判した小出さんは、インド独立の指導者、マハトマ・ガンジーの言葉「七つの社会的罪」を挙げた。うち二つは「道徳なき商業」と「人間性なき科学」。前者を東電、後者を自らも含めたアカデミズムに当てはめた。
「一人一人の人間が生きてきた歴史が根こそぎ壊れた。失われる土地、生活、健康を考えれば、これからも原子力が科学の進歩で何とかなるとは、私には到底言えない」
小出さんは静かに言った。
■
ふと目の前にあるついたてを見ると、ひげをはやした老人の顔写真があった。足尾鉱毒事件の被害者救済に生涯をささげた明治時代の政治家、田中正造。「私が最も敬愛している人です」
日本が列強入りを目指し、日露戦争に突き進もうとした時代。正造は、群馬・栃木県の渡良瀬川流域で起きた足尾銅山からの鉱毒公害を告発し、権力の横暴と闘った。明治天皇に直訴し、自らの命と引き換えに農民たちを救おうとしたことはあまりにも有名だ。
くしくも震災発生直前の3月8日、正造の晩年の直筆短歌が栃木県で見つかった。
<世をいとひ そしりをいミて 何かせん 身をすてゝこそ たのしかりけれ>
そしりを受けて世を恨んでも仕方ない。身を捨てて事に当たればこそ楽しいこともあろう――。「正造さんは国家に見捨てられた農民に最期まで寄り添い続けた。亡くなる時も、自分の病気より鉱毒のことを気にして、住民を叱咤(しった)した。実に潔い生き方だと思います」
鉱毒と原発――。二つの出来事が時を超えて重なる。
「原発には都会が引き受けられないリスクがある。そのリスクを、都会の住人は社会的に弱い立場にある過疎地の人たちに押しつけている。仮に原発事故が防げても、原子力を使い続ける限り核のゴミ(放射性廃棄物)は増え続けるし、人間はそれを無毒化できない。私たちの世代は、自らの利益のために、選択権のない後世にその『毒』を押しつけているのです」
後世への責任。それは小出さんが常に強調してやまないことだ。「原子力の場にいる私にも普通の人とは違う責任がある。そして、普通の日本人の皆さんにも責任はあると思う。推進派にだまされたかもしれない。でも、だまされた責任もあるはずです」
とすれば、やるべきことは何か。
「原子力を進めてきたのは大人だが、そのしわ寄せを受けるのは、おそらく子どもたちです。子どもたちの犠牲を何とか少なくするために、私は自分なりに責任を果たしていきたいのです」
この国の原発数は米仏に次ぐ54基。自ら「異端」と称する研究者は、これからの長く険しい闘いを覚悟しているようだった。
転載元:特集ワイド:研究の前線で反原発 住民支える「異端」--京大原子炉実験所・小出助教 – 毎日jp(毎日新聞)
☆7月4日 玄海原発の圧力容器の脆さについて 小出裕章(MBS)
2011年7月4日(月)、MBS(毎日放送)ラジオの「たね蒔きジャーナル」に、小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)が出演されました。
京都大学の小出先生には、きょうの原発の動きについて見解を伺います。
http://www.youtube.com/watch?v=jyEX8flZ4sk&feature=player_embedded#at=16
内容書き起こし
※()内はラジオパーソナリティーの発言です。
(玄海原発の再稼働について。再稼働に向けて話が進んでいるようです。小出さんの感想をいただけますか?)
小出:玄海原発が国のほうが安全だというわけですね。(海江田さんは安全性について国が責任を持ちますと)それで玄海町の佐賀県もOKを出すのだと思いますけれども。それなら福島原発に関しては国は安全性を保証していなかったんでしょうか。(福島原発に関しては、地震の確率がゼロなのでということだったのでは)いずれにしても福島原発に関してはどんなことがあっても安全だと国は言ってきた、のですよね。で福島県もそれを信じてきたわけだし、地元の住民の人たちも国が言っているのだから大丈夫だろうとおもってきた。けれどもやはり事故というものが起きた。事故というのはそういうもんだし、原子力発電所というのは事故が起きたときに途方も無い被害が起きてしまうと。だから私はやめるべきだと思っているわけですけれども。国が安全だといったからもういいです、と一体どうしてそういうことが自治体の長として言えるのか私にはさっぱりわかりません。
(この玄海原発は4号機まであるんですが1号機が特に古くて36年、2号機は30年たっていて、老朽化でだんだん原子炉が問題が生じてくる問いわれている。老朽化の問題の象徴的な問題である)
小出:そうですね。ただまああの敦賀の1号機、あるいは美浜の1号機はもう既に41年建っているわけで、もっともっと老朽化している原発はあるわけですから、老朽化という問題だけで言うならば玄海が特別悪いということはないと思います。
(ただ老朽化しますとこれは金属材料学が専門の東大の名誉教授のうのさんという先生が仰っていることですけれども、この玄海原発は1号機が圧力容器本体が壊れる可能性が高いと指摘している)
小出:私もそう思います。圧力容器というのは金属なんですね。鉄でできている。鉄というのは叩いたところでへっこむし、曲げようと思えばある程度曲がるのですね。そういう意味ではガラスとは全然違いますよね。ガラスは叩けば割れるし曲げようとすれば割れてしまう。わけですけれども。鉄というものも中性子という放射線で浴びていくと、どんどんどんどんもろくなっていく性質があるのです。それで1番始めの鉄自身はいわゆる私たちが生活している常温というのですけれども、20度30度というところであれば脆くない、のですよね。叩いても割れないし引っ張ったって簡単には切れないし、ねれば伸びるというそういうものなのですけれども、中性子という放射線を浴びていくと、どんどんどんどん脆くなっていきまして、ガラスに近づいていきます。
(ガラスのような特性に近づいていく)
小出:それが近づいていく温度というのがですね、もともとはマイナス何十度まで冷やさなければガラスのようなものにはならないのですけれども、鉄は。それが中性子を浴びると共にガラスのようになってしまう温度がどんどんどんどん上がっていく。それで普通の温度でも鉄自身がガラスのようになってしまうと。いうことで、玄海の3号炉だったでしょうか2号炉だったでしょうか、それか1号炉だったかすいません私は(※聞き取れず)そこはもう90何度という温度でもうガラスのようになってしまう。もちろんそれよりも低い温度ならガラスのようになるということで、普通原子炉が動いているときは200何十度という温度ですからいいのですけれども、もし何かトラブルがあって原子炉を冷やそうとして冷たい水を入れようとするわけですね。冷やそうとするとね外から冷たい水を入れる。今も福島でやっている。そういう事をすると圧力容器と言ってる鋼鉄製の容器自身がガラスのような状態になっているところに、水を入れてしまうということで、壊れてしまうということになる。(壊れるという壊れ方がパーンとわれてしまう?)そうです。(パリッ問われてしまうガラスのイメージですか)そうです。
(原子炉がパーン問われるということはつまり何を示すのですか)
小出:もう手のうちようが無くなるということですね。
(中にある放射性物質、核燃料が全部大気中にいっぺんに出るということですか)
小出:割れてしまうと水が抜けてしまうわけで、原子炉を冷やせなくなるわけでして、原子炉がもうメルトダウンすることが避けられなくなるということですね。それ以降どういう挙動を取るということはまだよくわかりません。格納容器が壊れてしまえば大気中に出てきますし、格納容器の底に穴が開けば地下にめりこんでいくという。まあいずれにしても、どういう経路かをとって環境に放射能が漏れてくるということになってしまいます。
(先生、加圧水型という原子炉ですね、福島は今回は沸騰水型ですが、関西は加圧水型ですよね。そういう意味では万一の時には怖いタイプの原子炉と言えるんですかね)
小出:そうです。沸騰水型に比べて温度も圧力も高いですので、事故があるときには進展も早いですし圧力容器の健全性というのはもっと重要だと思います。
小出:(こうした、どのタイプか、とか何年たったらどうなるかということは、電力会社も国も分かっているんですよね?)
小出:えーっと、分かっていないと思います。(分かっていないんですか)というか、原子力というのはまだまだ新しい領域の技術なのですね。1954年に一番初めに商業用の原子力発電所がソ連で動き始めて、57年に米国のシッピングポートというところで動くはじめて、それから初めて原子力という発電をやり始めたのですね。いったい何年持つのだろうかと、始めから考えたんですけれども。まあ40年だろうなと思いながら来たんですね。その40年本当に持つかということを原子炉の中に試験片というものを入れて、(試験片ってどんな字を書くのですか)試験、テストのかけらですね。それを原子炉の中に入れて、鉄がどれだけガラスに近づいていくのかということをずっと調べながらきているのです。当初は40年だと思いながら来たわけですけれども、まだ大丈夫じゃないかということで今寿命を延長しようとして米国でもドンドン延長されてますし、日本でもすでに40年を経て敦賀でも美浜でもまだ動いている状態なんですね。でもそれは安全性をすこしずつ食いつぶしながらきているということですから、私としてはやめてほしいと思いますし、ガラスにドンドン近づいてきたような圧力容器を持っている原子炉から止めるべきだと私は思います。
(ドイツやアメリカなどでは廃炉、やめていくという動きがあるのですよね)
小出:もちろんあります。
(40年でもまだ大丈夫ではないかと試験片からおもってドンドン伸びていこうとしている。だがそれはまだわからない領域のところに我々ははいろうとしている)
小出:危険性がだんだんあがってきているということは確かなのですけれども、どこまで頑張るかということでやろうとしてるわけですね。(これコストの関係とかいろいろあるんでしょうね)もちろんです。
(またそうした面からも語っていただける機械をつくろうと思います。どうもありがとうございました)
小出:ありがとうございました。
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